株式会社ディアローグコスメティクス(本社:東京都渋谷区、代表取締役:山口哲朗)が製造・販売するヘアケア商品「幾重(いくえ)」は、障がい者が製造の一部を担っています。工場は長野県木曽町。YouTubeの人気番組「令和の虎」に出演する経営者、井口智明(ディアローグホールディングス会長)のふるさとです。井口がなぜシャンプーづくりや社会福祉に情熱を燃やすのか。「幾重」誕生の物語をご紹介します。
美容師の手に血がにじんで
「痛っ」。2019年のある日。ヘアサロン「ディアローグ自由が丘店」で、美容師が思わず声を上げました。同僚の光田夏尉が視線を向けると、シャンプー担当のスタッフが手指をさすっています。ささくれができ、ところどころ血もにじんでいました。
1日に何度となく洗髪を繰り返すため、手袋をしていても手荒れに悩む美容師は少なくありません。美容師の間では当たり前と受け止められていましたが、光田は違うことを考えました。
「美容師の手が荒れないシャンプーやトリートメントはないのか」「そもそも美容師の手肌が荒れにくいシャンプーなら、お客さまの髪や地肌にも優しいのではないか」――。
そんな思いを抱きながら迎えた2020年。コロナ禍で外出自粛が呼びかけられる中、美容室の客足も遠のきます。「美容師の手に優しいヘアケア製品を、自分たちで作ろう」。逆境をチャンスと捉え、製品作りを始めたのです。
公務員を辞めて美容院を作った理由
ディアローグは2005年、井口智明が創業しました。新卒でゼネコンに入社し、のち横浜市役所職員に。しかし昇任試験に通らなかったのをきっかけに退職します。最初は経験を元に建築許可の代行などをしていました。
なぜヘアサロンを始めたのか?
「自分が行きたいと思える美容院がなかったからです」。当時を思い出し、井口は笑います。今でこそ美容師免許は持っていますが、当時は素人でした。
「隣のお客さんが女性だと、美容師さんと話す内容にも気を遣ってしまって。だから個室の美容室がいいなと」。自ら設計し、全席個室の美容室、ディアローグを自由が丘に開業しました。そのころは個室が珍しく、インターネットで予約できるシステムを導入したことも好評で、2006年には自由が丘と同様の激戦区、下北沢に2店目をオープンさせます。
東京で成功後も、心はふるさとに
「実は人混みが今でも苦手なんです」
事業が順調に拡大する中でも、井口は故郷の長野・木曽に定期的に戻っていました。山でキノコを採ったり、川で魚を釣ったり。放課後にマツタケを採っていた中学生の時と根は同じだといいます。
だからこそ、少子高齢化が進む町の姿も肌で感じ、ふるさとの将来に心を砕いてきました。「このままでは人が住める場所ではなくなってしまうかもしれない。いつかは生まれ育ったところに貢献したい」
長野県木曽町の1995年の出生数は125人でしたが、2021年には32人(注1)。若い世代の働く場所が限られ、地域の外に出て行ってしまう。世代交代は進まず、ますます高齢化が進んでしまいます。さらに、障がい者の住む場所や働く場所は極端に不足していました。
ディアローグは2007年に保育園の設計や経営に乗り出し、京浜地区で順調に施設数を増やしていました。旧知の町幹部から社会福祉事業の展開を打診されます。
「黒字にならない事業なので、だれも手を出したがりません。しかし需要はあるんです」。井口は指摘します。
「人が住み続けられる町にするには、インフラ整備などのハード面と、補助金などのソフト面の両方が必要。今の行政はハード面に予算を回せず、ソフト面だけで終わってしまっている。ハード面にお金を回せるよう、ソフト面では民間の力でできることをしたい」
2014年、長野県木曽町に障がい者グループホーム「I-HOUSE」を開業。木曽ヒノキを用い、保育園で使う椅子や机、建築資材などを製作する障がい者就労施設「I-WORK」を同県上松町に設立し、住む場所と働く場所を供給しました。
「幾重」の名前に込めた思い
木曽駒ヶ岳の登山口近くに湧水を採取する施設があると井口が聞いたのは、しばらく後のこと。かつてはスキー場があり、閉鎖後は複数の業者がミネラルウオーターの製造・販売を企図して施設を建設しましたが、さまざまな経緯で頓挫し利用されないままになっていました。
木曽駒ヶ岳の湧水にはミネラル分、特にシリカ(二酸化珪素)が含まれています。乾燥剤でおなじみのシリカは表面に無数の穴があり、保水機能があります。地元では「体にいい」「肌にいい」と昔から言われており、井口も子供の頃肌につけていました。
東京では、シャンプー作りが大詰めを迎えていました。「肌にいいなら、頭皮にもいいのでは」。天然シリカ水の利用方法を考えていた井口は、光田が開発したシャンプーに使うことを考えつきました。製造も現地で行うのです。水源を有効活用し、障がい者を含め地元の人々の仕事を創ることにもなります。
美容師の手とお客さまの髪に優しく、地元の人々にも優しい。加えて生分解性が高く、地球にも優しい。関わる人々の喜びが何重にもつながるように――。
「幾重」。そんな願いを込めて名付けました。
”日本一給料の高い”B型支援施設を目指して
午前8時半。「幾重」を製造する工場に、スタッフが出勤してきます。ラジオ体操を済ませ、9時15分始業。ボトルにラベルをはったり、トリートメントの箱を組み立てたり。時折雑談をはさむ人もいれば、黙々と作業をする人も。壁や天井の建材は木曽ヒノキ。大きな窓から注ぎ込む陽光の中、明るい雰囲気の中で作業が進みます。
障がい者の就労支援施設「I-WORK」では「幾重」の製造工程の一部を担当しています。働いているのは16人。グループホーム「I-HOUSE」の入所者もいれば、自宅から通勤する人も。
機械化できる工程もありますが、I-WORKではあえて人が携わる工程を取り入れています。障がい者を含めて地元の人が働く場を確保し、住み続けられる町を実現したいからです。
障がいのある娘を持つ女性は、特別支援学校を卒業した後の娘の職場候補としてI-WORKを見学。「ドラッグストアでも売っている商品の製造に関われることで、自分の仕事に誇りが持てそうです」と感想を話してくださいました。
就労継続支援B型の平均工賃月額は約1万7000円(注3)。一方I-WORKでの「幾重」製造作業の時給は800円。働き方にもよりますが月8万〜9万円の収入になります。「障害者年金があるとはいえ、障がい児が親亡き後どう生きていくかは切実な課題」と女性。「収入だけでなく、社会の一員として自立して暮らせるのが理想。障害者福祉の現場にこんな事業所がもっと増えてほしい」
とはいえ、だれでも働けるわけではありません。田中茂施設長によると、作業には集中力と体力が必要。向いていない人も中にはいるので、勤務を希望する人には5日間実習をしてもらっています。田中施設長は「ここで就労を経験した後、一般企業に転職した人もいます。先日、お菓子をおみやげに訪ねてくれました」と話します。
シャンプーがつなぐ、人と地域と地球
ありがたいことに「幾重」の販売は順調です。シャンプー・コンディショナーだけでなくヘアオイルも作りました。長野県を中心としたドラッグストアなど店頭のほか、Amazonや楽天、自社サイトでも販売。自社美容室のある台湾にも輸出しています。
地域の活性化や雇用、環境などに配慮して商品を買ったりサービスを受けたりする行動は「エシカル消費」と呼ばれ、近年急速に広がっています。最初から意図していたわけではありませんが、結果として「幾重」はエシカル消費に合致した商品になりました。
500mlボトルが1800円(税別)からと、決して安いシャンプーではありません。しかし、品質は間違いないと胸を張って言えます。もっと多くの人に使ってもらえたら、もっと多くの障がい者が働けるようになります。
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「令和の虎」に井口が志願者として登場し、スキー場跡地のキャンプ場開発費用として1000万円を出資していただいたのは2022年。当時プレゼンで出資をお願いした大浴場は無事完成し、「幾重」シャンプーやコンディショナーを利用者にお使いいただいています。
美容師の手荒れから始まり、あなたの髪と地肌だけでなく、地域の人と地球環境に、幾重にも優しさをもたらす「幾重」はこうして生まれました。多くのヘアケア商品の中には、こんなものもあるんだと知っていただけたらこの上ない喜びです。
※「幾重」販売サイトは
p.8
注2 B型就労継続支援施設:障害者総合支援法における就労系サービス4種のうち、「一般企業に雇用されることが困難であって、雇用契約に基づく就労が困難である者に対して、就労の機会の提供及び生産活動の機会の提供を行」う施設を指します。A型と違う点は雇用契約がないことです。
参考:厚生労働省「
」
注3 就労継続支援施設の平均工賃月額:障害者優先調達支援法などにより、国、独立行政法人、都道府県、市町村、地方独立行政法人などには生産活動の経営改善を目的に、施設生産商品の調達が義務付けられました。A型は全国平均で約8万3500円です。
参考:厚生労働省障害福祉課「