株式会社翔雲社は、「オンリーワンの本づくり」を理念に、多様なジャンルの書籍、電子書籍、オンデマンド書籍を発行している神奈川にある小さな出版社です。
そんな出版社が、ドイツで2013年以降19冊ものパンの著書を出したパン職人であるルッツ・ガイスラー氏の『Brotbackbuch Nr.4 Backen mit Sauerteig』の邦訳本を出版することになったきっかけは、翻訳者である森本智子さんからの一通のメールでした。このストーリーでは、2024年7月29日に発売した『
』の出版背景について、当社代表・池田がお話します。
森本さんからの意外な提案。邦訳本に4作目を選んだ理由とは
2021年8月に森本智子さんから突如届いたメールには「パンなどのレシピ本を手掛ける出版社に相談したが、企画が通らなかったので、御社で検討してほしい」と書かれていました。正直なところ、パンの専門出版社で通らない企画ができるとは思えませんでしたが、まずは話を伺うことにしました。
原書は全ページカラーの上製本で、プロが撮影した色々なパンの写真が掲載されていました。出版企画書には「ルッツ氏の本は、丁寧なレシピはもちろん、材料、道具、パン作りの各ステップを理解する情報も豊富で、初心者にわかりやすく、経験者には実用的で、パン職人が基本に立ち返るのにも役に立つ」とあり、第1作目の『Brotbackbuch Nr.1』は2014年ドイツ・ガストロノミー・アカデミー協会から金メダルを受賞し、12万5,000部を売り上げ、2作目は42,000部、3作目は16,000部(2021年9月当時)を売り上げ、韓国や中国、フランスでも翻訳されていると書かれていました。
企画書を読んだときに、まず最初に気になったのが、「なぜ、森本さんは一番売れている1作目ではなく、4作目を選んだのか」でした。
森本さん自身は、以前からルッツ氏とも面識があり、通訳やコーディネーターなどをされてドイツに精通した方で、その森本さん曰く「4作目はサワー種や発酵種の詳細な解説や種の起こし方などが書かれた貴重な専門書かつレシピ集で、日本でこれほど実践的な本は出版されていない。4作目こそが日本で出版するに値する」とのことでした。
膨らむ出版費用に、見通しが立たず苦悩する日々。転機となったのは、パン関連のプロデュース業をしている方からのコメントだった
本の内容やシリーズ販売実績からすれば、非常に期待できる本だと感じたものの、翻訳出版となると、翻訳権の費用やエージェント手数料、訳者への原稿料、版元への報告対応などの通常の出版ではかからない費用や負担も考える必要があります。さらにこの本は400頁超えのフルカラーなので編集校正の工数もかかるうえに、用紙代、印刷費用も相当な額になります。読者が手にしやすい価格で、書店販売するとなると相当な数を売らないと赤字になることは容易に想像できました。
先の見通しが立たず悩んでいたとき、森本さんのメールの中に、パン関連のプロデュース業をしている方の「この本を必要とする人は1万円でも購入する」「1冊1万円で500人限定で販売したらどうか」というコメントが目に留まりました。それを見たとき、目の前にかかっていた霧が晴れていく感じがしました。
早期予約特典として用意した『別冊レシピ』がヒット。1年後には500部超えを達成し始動
「1冊1万円で500人」というプランが成り立つのか検討をはじめました。原書の上品な雰囲気と表紙の手触り感は再現したいと思っていたので、本文も原書と同じレイアウトにして統一感を持たせて、「本全体の装丁は原書と合わせる」と決めました。
印刷会社に条件を伝えて出てきた見積額とその他にかかる費用を踏まえて、シミュレーションして「1冊1万円」「500人」プランであれば、なんとかなるだろうという結論に至りました。
そこで、リスクを下げるために「発行部数は1000部に限定。先に購入希望者500人を募集して、集まれば正式に出版する」という前提で、森本さんのパン業界とのコネクションや人脈に頼り、業界紙やSNSでの呼びかけをしてもらい、募集から始めることにしました。
2022年3月から募集を開始したものの目標の500人までは長い道のりでした。本の紹介や募集内容を掲載した「日本語版出版プロジェクト」という特設サイトを立ち上げ、案内チラシを作成して、パン業界紙や団体への周知をしたり、インタビュー記事を掲載してもらったりと、できるだけ多くの人の目にとまるように活動を続けました。
募集に拍車を掛けたいと考えていたとき、ルッツ氏が自身のブログで様々なパンレシピを紹介していることを知りました。ブログの一部を翻訳したレシピ本を早期予約特典にすれば喜ばれると思い、ルッツ氏の許諾を得て、『別冊レシピ』を特典として用意できることになりました。この『別冊レシピ』が思いのほかヒットして、別冊目当ての方がいるほど、購入希望者増の原動力になりました。
募集を開始して4~5カ月目に300人ほど集まり、11月には400人まで増えました。しかし、年が明けた2023年1月、430人前後で停滞し、それ以降なかなか人数が伸びない状況が3カ月ほど続きました。
募集開始から約1年が過ぎた4月16日。
森本さんから「466人、504部になった」というメールが突如届きました。500人超えではなかったのですが、この日が正式な始動日となりました。
すぐに前々から調整していたエージェンシーにオファーを出し、6月末には翻訳出版権を締結することができました。
募集と翻訳を並行して進めてくれていた、翻訳者 森本智子さんが語る
実は、募集を開始した頃から森本さんには翻訳を進めてもらっていました。正式に始動することが決まってから翻訳を始めたのでは、本の完成が遅くなり、購入希望者の熱も冷めてしまうからです。
募集と並行して翻訳を進めていてくれた森本さんに、翻訳にあたって苦労したことなど語っていただきました。
左:ルッツ・ガイスラー氏 右:森本智子さん
森本さんの談話
この本については内容の充実さが他に類を見ないこと、著者が日本でパンレッスンをした時に、サワー種についての質問がかなりあったこと、周囲のパン屋さんからもぜひ翻訳してほしいという声があったことから、読者がいるという確信はありました。パンについては自著もあり、レシピの翻訳、ドイツ人パン職人のパンレッスンでの通訳などは手掛けたことがあったため、この本の前半にあるレシピや序章などは特に翻訳上の苦労はありませんでした。
難しかったのは後半の【基礎知識】の部分です。この本の要はこの【基礎知識】にあります。日本でもサワー種(発酵種)については包括的にまとめた本はあまりありません。内容がとても奥が深く専門的なため、当然ですがまずは私自身が内容をきちんと理解することが重要でした。著者と知り合いだったため、著者に直接質問することができたのは幸いでした。
ただ、訳すにあたっては、参考にできる文献がそれほど多くなかったり、日本語では一般的にどう言われて(表記されて)いるのかわからない語彙や内容があったため、専門家にも質問しながらそうした点をクリアにしていくことが大変な作業でした。時間がかかったため、訳を徹底的に読み直して納得のいく状態で提出することができず、校正段階では校正者・出版社の方に苦労をおかけしてしまいました。
単なるレシピ本ではないからこその苦労。聞いたことのない用語や内容を、協力しながら完成させていく
森本さんの談話にもあったとおり、原稿の校正段階で、この本が単なるレシピ本ではないからこその苦労が待ち構えていました。本の後半は、サワー種の作り方や手入れ方法、発酵過程の説明、酵母や菌の働きなどの専門的な内容が充実しています。聞いたことのない用語や内容があちらこちらに出てくるので、理解できない箇所や訳文の違和感は、森本さんと一緒になって文章の完成度を高めていく必要がありました。
ようやく迎えた販売開始。直後の伸び悩みから、目標を上回る650件達成へ
初校~三校と文章のブラッシュアップを重ねているうちに1年の月日が流れていました。原稿の最終チェックをして入稿できたのが2024年6月。発行日は7月29日に決まりました。
7月1日、購入希望者に宛てて予約販売開始のメールを配信しました。この時点で購入希望者数は650人まで増えていました。4日後の7月4日時点で注文数は125件と予想をかなり下回る状況でした。そこで、購入希望者に再度メールを送った結果、250件まで増えました。募集開始から2年以上も経っているためか、当時のメールアドレスから変わっている人も多く、注文数が伸びない日がしばらく続きました。
7月15日からの一般販売開始に合わせて、日本全国のパン店や製菓専門学校にチラシを送ったり、SNSでの発信やインスタライブでの紹介をしたりと販促を続けた効果もあってか、7月30日についに目標にしていた500件の大台に乗りました。スッと肩の荷が下りた感覚は今でも覚えています。
そして、8月末には650件まで増え、その後も口コミで本を知った方やご友人からの紹介などで注文が日々入ってきています。
この本が、日本にサワー種パンが広まるきっかけとなることを願う
本を購入された方から「とてもよくできた本」「装丁も素晴らしい、本の内容もわかりやすい」「日本のパン文化、街のパン屋のラインナップが大きく変わる気がする」などの賛辞もいただきました。
この本がきっかけとなって、日本にもっとサワー種パンが広まってほしいと思っています。いつの日か私の街のパン屋さんでも色んなサワー種パンを見かけることができたら、その時が本当の意味での出版冥利に尽きる日になるのかなと思っています。
発行までに約3年かかりましたが、素晴らしい邦訳本を世に送り出せたのは森本さんをはじめ、専門的な部分をチェックいただいたオリエンタル酵母工業株式会社とfjiyobrotの方々、協賛いただいた日清製粉株式会社の方々のご支援とご協力のおかげです。この場を借りて関係者の皆さまに深く感謝申し上げます。
著者:ルッツ・ガイスラー
訳者:森本智子
定価:10,000円+税
発売日:2024年7月29日
判型:B5判 上製
ページ数:406頁
ISBN:978-4-910135-08-3
発行:翔雲社
書籍の詳細:
こぼれ話
本のサイズはB5判(原書より一回り大きい)にすることは組版段階で決めてましたが、用紙の選定にあたっては印刷会社の人と何度も打合せをしました。
原書にはカバーはなく、表紙だけの上製本という作りです。表紙の用紙を検討した際には、「調理中に本を広げると粉や水分などの汚れがつくので、防止できるといい」という声もあり、耐水性に優れて破れにくいユポ紙が候補にあがりましたが、ユポ紙は価格が高いため断念しました。ストーンペーパーという石灰石を原材料とした用紙は耐水性、耐久性があり、価格面も合格点でしたが、用紙の手触り感が人工的でぬめり感があり、本の雰囲気に合わないと感じたので不採用になりました。
あれこれと検討はしてみたものの、「本全体の装丁も原書と合わせる」ことを最終的に重視しました。
原書の表紙をルーペで覗くと、微細なエンボス(凹凸感)があります。そこで、同じようなヤスリの細かな目のようなエンボスパターンのある紙(竹尾 タントセレクトTS-8 )を採用しました。ただ、汚れや水分に強い紙ではないので、表紙には通常のニスではなく、耐摩耗ニスで加工して、少しでも綺麗な状態で使ってもらえるように工夫しました。
本文用紙に関しては、原書はラフで多少厚みのある用紙になっています。ラフな紙なのでパンや発酵種の写真は鮮明ではないですが、ナチュラルで柔らかい色で表現されています。そこで、手で触った感じが原書によく似ていて、印刷も綺麗にでるラフな微塗工紙(日本製紙 b7バルキー)を選定しました。
印刷はというと、パンやサワー種、酵母の写真をより色鮮やかでクリアな印刷にするために高精細印刷のスクリーン線数240線を採用しました。本番印刷の際には、現場に出向いて、原書と印刷されてきた紙と比較し、色の再現性や濃さの調整の立ち合いもしてきました。
会社概要
会社名: 株式会社翔雲社
本社: 神奈川県相模原市南区東大沼2-21-4
代表者: 代表取締役 池田勝也
事業内容: 書籍、電子書籍、PODの出版・販売・企画
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