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なぜ今、「人材決算書」なのか?人材決算書とは何か人的資本KPIとROEの見逃せない相関A社が“財務体質”を超えた理由ROEはもはや“ヒト”で決まる
なぜ今、「人材決算書」なのか?
企業の真の実力は財務諸表だけでは測れない――
近年、この考え方が経営の世界で急速に広まりつつあります。従来の貸借対照表や損益計算書には表れない無形資産、特に「人材(ヒト)に関する資本」の重要性が高まっているのです。
実際、企業価値の源泉がモノからヒトなどの無形資産へとシフトしており、GAFAに代表される米国企業では「企業の内在的価値を評価するには人的資本に関する情報が不可欠」との認識が広がっています。
これはESG投資においても同様で、従業員や組織風土といった財務諸表に載らない要素が企業評価の重要な軸となり始めました。
こうした流れを受け、世界各国で人的資本の情報開示が強化されています。欧州連合(EU)は2024年にCSRD(企業サステナビリティ報告指令)を施行し、人材に関する幅広い指標の開示を義務付けました。米国でも証券取引委員会(SEC)が2020年に上場企業へ人的資本情報の開示を求め始め、日本でも2023年から有価証券報告書での人的資本関連情報の開示がついに義務化されています。
このように経営層や投資家は、財務数値の裏側にある“人”の情報に注目せざるを得ない時代に入ったのです。
本稿で提起したい問題は、「ROE(自己資本利益率)は人的資本の質に依存する時代が来た」という新しい視点です。
企業の収益力を示すROEも、人材のエンゲージメントやスキル、組織力といった人的資本の質如何で大きく左右されるようになっています。
そこで以下、「人材決算書」という概念を手がかりに、非財務である人的資本情報がいかに企業価値を決定づけるかを論じていきます。
人材決算書とは何か
「人材決算書」とは、企業の人的資本に関する情報を網羅した“非財務のバランスシート”です。
従業員という資産の価値や、その投資対効果を可視化するもので、財務諸表では見えない組織の健康度を示す指標群が含まれます。
具体的には、ISO 30414(2018年発行)という国際規格がガイドラインを提示しており、内部・外部向けの人的資本レポーティングの標準として注目されています。ISO 30414や各国規制では、例えば従業員数や離職率、育成投資額、多様性指標など、多岐にわたるKPI(重要業績評価指標)の開示が推奨されています。
これらは一社一社の「人材バランスシート」を構成する項目と言えるでしょう。
人的資本における主要KPIにはどのようなものがあるでしょうか。国際標準のISO 30414では、例えば「後継者の育成計画」に関して以下のような指標が定められています。
内部継承率:重要ポストにどれだけ社内人材が登用されているか
後継者候補準備率:重要ポストごとに後任候補が何人用意されているか
後継者の継承準備度(即時/将来):すぐ引き継げる候補者がいるかどうか
内部異動数:社内での配置転換や異動の活性度合い(人材の流動性)
これらは一例ですが、組織にリーダーシップのパイプラインが構築され、計画的に人材が育成されているかを定量的に示す“ものさし”となります。
同様に、従業員エンゲージメント(仕事や組織に対する熱意)、定着率(離職せず定着する割合)、労働生産性(従業員一人当たりの付加価値)など、多くのKPIが人的資本の健全性を測る指標として活用されています。
こうした「人材決算書」を読み解くことで、投資家や経営者は企業の持続的競争力や潜在的なリスクを把握できるのです。実際、米国SECの助言委員会資料でも「従業員数(正社員・パート・契約別)、勤続年数と離職率、人材への投資額、従業員属性ごとの報酬、ダイバーシティ」などの開示項目が例示されており、投資家が求める人的資本情報の具体像が示されています。
質の高い人材情報とはつまり、企業が“どんな人材にどう投資し、どう活かしているか”を示す定量データなのです。
人的資本KPIとROEの見逃せない相関
では人的資本と財務指標(ROEなど)には本当に相関があるのでしょうか。
近年の研究や事例は、この問いに力強いエビデンスを提供し始めています。
まず海外の研究では、「働きがいのある企業100社」に選ばれるような従業員満足度の高い企業は、同業平均を上回る株式リターンを生み出しているとの報告があります。
またハーバード・ビジネス・レビュー(HBR)の調査によれば、従業員エンゲージメントが高い企業ほど収益性や生産性が高いとされ、人的資本の充実が企業パフォーマンスを押し上げる傾向が示唆されています。こうした傾向は定性的な印象論ではなく、統計的な分析によって裏付けられつつあります。
人的資本とROEのつながりを考える際、重要なのは“投資効率”という視点です。
人的資本への投資が効率的に行われれば、それは労働生産性の向上やコスト構造の改善**となって現れ、結果的に利益率やROEを押し上げます。例えば、従業員一人当たり売上高(労働生産性)は人材育成や定着によって大きく変わります。J.P.モルガン・アセットマネジメントの分析によれば、離職率が低く研修投資の高い企業ほど、労働生産性(従業員あたり売上)が高い傾向が確認されています。反対に、人材への投資を怠れば、従業員の生産性低下やミス増加によって「隠れコスト」が膨らみ、収益性を蝕むでしょう。
また、定着率(離職の少なさ)も見逃せない指標です。慢性的な人材の入れ替わりがある企業では、採用・育成コストがかさむだけでなく組織知が蓄積せず、生産性も向上しにくくなります。調査によれば、社員一人を入れ替えるコストは年収の半分~2倍にもなるとされ、高い離職率は企業の利益を直接圧迫する要因です。しかし、逆にエンゲージメントの高い企業では離職率が24%も低下するとの報告もあります。つまり人的資本への注力が人材流出という“穴”を塞ぎ、コスト削減と知見蓄積による利益押上げ効果をもたらすのです。
さらに「後継者候補の準備率」のようなリーダー育成指標にも注目しましょう。後継者育成が進んでいる企業では、経営幹部の退任や組織拡大に際してスムーズな交代が可能であり、事業の連続性が保たれます。これは将来の業績不安を低減し、市場からの信頼(ひいては株価やPBR)向上につながります。
採用の質を上げ、育成スピードを早め、離職コストを削減する
――これら人的資本ドライバーへの取り組みこそが、結果的にROEという財務指標の改善要素になるのです。
A社が“財務体質”を超えた理由
ここで、実際に人的資本経営によって企業価値を高めたケーススタディとして、IT企業のA社(従業員約300名)の事例をご紹介します。A社はソフトウェア開発を主力とし、営業利益率は業界平均を上回る高水準にもかかわらず、なぜかROEが低迷していました。表面的には黒字で財務体質は健全でしたが、組織内部では新規事業の停滞や次世代リーダーの不在といった内的停滞の兆候が見られたのです。
【課題】見えない人的リスクの顕在化
A社では従業員の離職率自体は低く、ぱっと見は安定した組織に映っていました。しかし詳細を分析すると、社内で新たな挑戦に手を挙げる社員が年々減少しており、静かな停滞が進んでいました。
ベテラン経営陣は「うちの社員は定着しているから問題ない」と捉えていましたが、実は将来の経営を託せる人材の芽が埋もれてしまっている危機的状況だったのです。営業利益率が高い一方でROEが伸び悩む背景には、こうした人的資本の眠った価値が影響している可能性がありました。
当社は、この隠れた課題にアプローチするべくA社への支援を開始しました。まず取り組んだのは、人的資本スコアリングによる現状可視化です。
具体的には、ISO 30414で規定される人的資本KPIをベースにA社の組織データを収集・分析しました。すると、経営層・部長職以上の内部登用率が業界平均を大きく下回り、重要ポストの多くで「後継者候補が0人」という実態が浮かび上がりました。
これはすなわち、A社には計画的なリーダー育成の仕組みが欠如していることを意味します。また並行して実施した従業員エンゲージメント調査でも、一部の優秀な若手社員のモチベーション低下が見られ、将来の離職リスクとなりうることが判明しました。
【支援プロセス】“見えない人材”をあぶり出すKANAMEの活用
課題を定量データで示した上で、当社はA社と協議し、人材戦略の立て直しに着手しました。
第一に行ったのが、独自開発した人材アセスメントサービス「KANAME」の導入です。KANAMEは社内に埋もれている“真のキーパーソン”を発掘・可視化するためのサーベイツールで、単なる業績評価とは異なり「組織への自律的な影響力」「成長意欲」「信頼形成力」といった多面的観点で将来の中核人材を見抜く仕組みになっています。
A社の全社員を対象にKANAMEサーベイを実施したところ、現場の評価では埋もれていた有望なリーダー候補が数名浮かび上がりました。
例えば、30代前半のエンジニアリングマネージャーBさんは物静かなタイプで、従来は「管理職止まり」と見なされていました。しかしKANAMEの分析結果では、彼が社内で高い信頼を集め周囲にポジティブな影響を与えていることがデータで示されたのです。実はBさんのような人物こそ、変革を起こせるリーダーの資質を備えていることが判明しました。経営陣も「こんな人がリーダー候補になるとは」と驚きを隠せませんでした。
このように、経営者側の思い込みで見過ごされていた逸材がデータに基づき発見され、リーダー育成候補のプールに加わったのです。
もちろん当初は、経営層から「データで人の何がわかるのか」という半信半疑の声もありましたし、人事部門も「人材を数値化するなんて…」と懸念を示しました。しかし、KANAMEが示す客観データと現場の声を丁寧に突き合わせ、「なぜ彼らが次世代リーダーになりうるのか」を経営陣へ示していきました。
同時に、新たな後継者像(求めるリーダー像)の要件定義を経営層とすり合わせ、候補者たちへのコーチングや異動機会の提供など育成策を実行しました。
【成果】人的資本への再投資→ROEが1年で2.8pt改善
人的資本の見える化と戦略的な人材登用により、A社は停滞していた組織に活力を取り戻し始めました。発掘された次世代リーダー候補たちが新規プロジェクトを牽引し、社員全体にも挑戦を促す風土が醸成されました。その結果、人材への投資配分の見直し(育成予算の増額・配置転換等)から約2年で、ROEは2.8ポイントの改善を記録しました。営業利益自体も増加しましたが、それ以上に自己資本の効率的活用が進み、組織の回転率が上がったことを意味します。
A社はこの成果を財務面だけでなく、しっかりと対外発信にも活かしました。翌年度の投資家説明会では、従来の財務指標に加えて「人材エンゲージメントスコア」「後継者候補者数」「離職率の推移」といった人的資本KPIを積極的に開示しました。
これは投資家からも高く評価され、「御社の人材戦略の見える化は将来の成長ストーリーを理解する上で有益だ」とポジティブなフィードバックを得ました。実際、人的資本の充実が確認されたことで株主の信頼感が増し、株価指標(PBR)も改善傾向を示しました。
A社の事例は、財務体質だけでなく“ヒトの力”まで含めて経営を改善することで、企業価値がトータルで向上することを示す象徴的なケースと言えるでしょう。
ROEはもはや“ヒト”で決まる
財務数値の奥にある“組織の中身”を読む時代がやってきました。
ROEという財務指標すら、裏には人材の質や配置、モチベーションといった「ヒト要因」が色濃く反映されることが、データや事例から見えてきています。
だからこそ、これからの経営者は伝統的な決算書だけでなく「人材決算書」を読み解く力が求められます。それは単に人事部門の関心事ではなく、経営戦略そのものに直結する新しい共通言語です。人的資本にまつわるKPIを理解し、投資家との対話に織り込むことで、企業はより説得力のある将来ビジョンを語れるようになるでしょう。
実際、人的資本情報はこれからIRにおける新たな鍵となり、財務と非財務を統合した「統合報告」の中心的テーマになっていくと考えられます。
最後に強調したいのは、ヒトの数値化はゴールではなく未来への羅針盤として有用性が高いということです。エンゲージメント得点や離職率の数字自体が企業価値を生むのではありません。
それらの指標を起点にして、「何が問題か?何を強化すべきか?」を絶えず問い続け、手を打っていくことこそが価値創造のプロセスです。人材の状況を定量的に把握し、戦略に反映していくことで、企業は変化の激しい時代でも揺るぎない成長軌道を描けるでしょう。ROEはもはや“ヒト”で決まる。**人材決算書を武器に、自社の未来を切り拓いていきましょう。