「もうこんな大変なこと、二度とやりたくない」から始まった――800人規模の組織を率いる撫中秀明氏が語る、エム・シー・ヘルスケアの九州商圏を切り拓いた四半世紀

2026.09.30 15:00
エム・シー・ヘルスケア株式会社(エム・シー・ヘルスケアグループ)
執行役員 地域統括第一本部長 兼 地域統括第二本部長 撫中 秀明 氏


エム・シー・ヘルスケア株式会社(以下、MCH)は、米国で発展した医療材料の物品管理手法である
(Supply Processing and Distribution)を日本で早くから展開してきた。現在、地域統括第一本部・第二本部の本部長を務める撫中秀明氏は800人規模の社内組織を率い、病院へサービスを提供する部門の先頭に立っている。しかし、その歩みは決して平坦なものではなかった。医療業界で当たり前とされてきた商慣習を打ち破ろうと挑んだことでメーカーやディーラーから警戒され、時には顧客である病院からも厳しい言葉を受けた。九州各地を駆け回り、点在する離島にも渡りながら、少しずつ病院や医療関係者との信頼を築いてきた。


「これまで九州の急性期病院を中心に、さまざまな病院からご相談をいただいてきました。病院の皆さまに本音でお付き合いいただいてきた、その積み重ねですかね」と、少し照れたような表情で笑う撫中氏がMCHで歩んだ四半世紀には、同社のSPD事業が歩んできた歴史そのものが重なっている。
■久留米で学んだ医療材料の選定と調達
撫中氏が医療業界に入ったのは1994年の春だった。「私は一浪して大学へ進学し、実は2回も留年しています。それほど褒められた学生時代ではありません。新卒で入社したのは、福岡県内で高いシェアを有する医療機器・医療材料のディーラーでした。同期とはすでに2、3歳の差がありました。そのためかどうかはわかりませんが、社内で最も困難といわれた久留米営業所に配属されました」と語る。


同社は、福岡県内では力のある会社だったが、久留米市内では後発組だった。既に他社が現地の病院と強固な取引関係を築いており、代理店制度によって扱える商品も限られていたため、価格や提案内容だけで新たに参入することは難しかった。


そうした中、撫中氏は病院へ足を運び、コミュニケーションを重ねて、何かあったときに気軽に相談を受けるような深い信頼関係を築いた。相談された医療機器や医療材料の同等品と価格を調べて病院へ報告し、病院が少しでも有利な条件で調達できるよう、地道な提案を重ねた。


「これは後付けになるかもしれませんが、MCHの前身である株式会社日本ホスピタルサービスが取り組んでいた調達支援に近い仕事をしていたのです。これを20代から実地で経験できたことは、私にとって財産になりました」と語る。


久留米時代には、病院の新築建替えにも携わった。当初は新病院の屋上にヘリポートを設置する計画だったが、地域の人々との調整が難しく、最終的には川沿いに代替用地を確保したという。「病院が新しく作られていく過程に、医療材料のディーラーという立場から関われたことは、貴重な経験でした」と振り返る。


最も厳しかったのは、当時の上司が病院から医療材料の管理業務を受注してきたときのことだった。「私は病院の救命救急センターや手術室の物品管理を担当し、通常業務を終えた後に、使用された物品の確認や締め作業を行っていました。しかし、絶対的に時間が足りません。食事はコンビニで買ったものを仕事の合間にかじる程度で、深夜に帰宅し、翌朝は病院が動き始める時間に合わせて再び仕事を始める生活でした。もうこんな大変なことは二度とやりたくない、メーカーで働く道もあるのではないかと考えていた時期もあります。それなのに、その後、SPDの会社であるMCHの門をたたくことになりました。因果なものですよね」と、撫中氏は苦笑する。


医療材料を病院の現場へ確実に届ける仕事は、外から見る以上に苦労が多い。特に救命救急センターや手術室では、多種多様な医療材料が使用される。供給を切らすことは許されず、使用した物品を正確に把握し、次の診療に備えて補充しなければならない。撫中氏にとって、このときの経験は、医療材料の管理と供給が病院の診療を支えていることを知る一方で、その厳しさを味わう機会となった。
■「業界の黒船」に入社して感じた戸惑い
その撫中氏がMCHに入社したのは、2002年1月である。久留米時代に「もうこんな大変な仕事は二度とやりたくない」と思った物品管理の世界へ、今度はSPD事業者の立場から踏み込むことになった。


2000年前後のMCHは、現在の事業につながる事業基盤を確立する途上にあり、医療業界の中で、同社が目指す仕組みが十分に理解されているとはいえなかった。撫中氏自身も、入社した当初は、MCHが何を目指している会社なのか、よく理解できなかったという。


従来、医療機器や医療材料の流通では、病院ごとに特定のディーラーが強い取引関係を築き、メーカーごとの代理店制度も存在していた。地域や病院によって商流が分かれているため、同じような機能を持つ医療材料であっても、病院が機能や価格を比較し、自由に選択することは容易ではなかった。


これに対して、MCHは複数の病院で使用する医療材料の情報を集約し、大量に購買することで仕入れ条件を改善したうえで、共同倉庫から各病院へ供給する仕組みを構築していた。メーカーやディーラーなど、医療材料を販売する側の事情を踏まえながら、顧客病院にとって有利な条件を引き出す。その成果を病院へ還元することが、MCHの事業の基本的な考え方だった。


しかし、ディーラー出身の撫中氏にとって、この仕組みはすぐに理解できるものではなかった。「物を売る会社なら、本来は少しでも高く売りたい。ところがMCHは、複数の病院で使う医療材料をまとめて買い、調達価格を下げ、その成果を病院へ還元しようとする。顧客のために安くすることを事業にして、どこで利益を出すのか。売り手なのか、買い手なのか。当時の私には、民間企業として根本的な矛盾を抱えた会社のように見えました」と、入社当時の戸惑いを率直に振り返る。


安く買うだけなら、一度の価格交渉で終わる。MCHが変えようとしていたのは、価格ではなく、病院ごと、メーカーごとに閉じていた調達の構造そのものだった。売り手と買い手の間に立ち、医療材料の需要を束ねることで調達条件を改善し、その成果を病院へ還元する。病院にとっては経営改善につながる一方、物を売る側から見れば、MCHは「高く売らないこと」を仕組みにした会社だった。


「ディーラーをやっていた私から見ても、MCHには『あり得ないことをする会社』『業界のアウトサイダー』という印象がありました。既存の商慣習に外から切り込む、いわば『業界の黒船』です。入社してからも、この会社を選んだのは失敗だったかもしれないと思ったことはありました」と打ち明ける。


さらに難しいのは、顧客である病院からも必ずしも歓迎されなかったことである。経費削減を実現するためには、価格の交渉にとどまらず、院内で使用する物品の選定や在庫、供給方法まで見直す必要がある。医師や看護師をはじめとする医療従事者には長年使い慣れた製品や手順があり、病院の事務部門にも、それまで築いてきた取引先との関係がある。病院経営の改善につながる提案であっても、現場の仕事の進め方を変えるものであれば、すぐに理解を得られるとは限らなかった。


撫中氏がMCHへ入社後、神戸で研修を受けていた時期に、MCHは関東の大学4病院のSPD業務を一括して受注した。撫中氏は入社して間もなく、新規受注先4病院の一つである千葉県内の病院へ赴任することになった。新しい仕組みを現場に定着させることは、決して容易ではなかった。病院の経費削減や業務改善を目指して提案を重ねても、その意図が十分に伝わらず、顧客から厳しい言葉を受けることがあったし、持参した提案資料を目の前で破られたことさえあった。


「こちらが一生懸命になって病院のために経費を削減しようとしているのに、その顧客からも怒られる。メーカーやディーラーから見れば、自分たちの商売を脅かす存在です。病院からも取引先からも歓迎されない中で、自分はいったい何をやっているのだろうと思うこともありました」と振り返る。


こうした経験は、利害の異なる関係者の間に立ち、合意点を探るうえで役立った。一方、入社初期の撫中氏には、MCHが目指す仕組みが業界に受け入れられるのか、確信までは持てなかった。その答えを実地で探ることになったのが、次に赴任した長崎だった。
■地鎮祭の翌日に告げられた長崎への異動
その後、撫中氏はMCHの長崎拠点を立ち上げる役割を任された。折しも福岡では、撫中氏自身の自宅の建て替えを始めようとしていた。ところが、自宅の地鎮祭を行った翌日、長崎への異動を告げられた。「これから家を建てようという、その翌日に異動です。結局、今に至るまで自宅で落ち着いて暮らした期間はほとんどありません」と笑う。
長崎赴任が決まったころの撫中氏とお子さん


撫中氏が赴任した当時、MCHの九州における拠点は福岡と熊本だけだった。長崎拠点の立ち上げは、九州でサービスを提供する地域を広げる具体的な一歩でもあった。同時に大分にも拠点が開設され、九州内の拠点網は少しずつ広がっていった。


当初、MCHが長崎で取引があった病院は、公的病院1施設だけだった。しかも、地域では有力な2社のディーラーが強固な商圏を築いていた。後発のMCHはメーカーからも警戒され、取引を持ちかけても相手にされず、取り扱える商品そのものが限られていた。拠点は作れても、商流の中に居場所がなかった。


ある医療材料メーカーへ勉強会をお願いしたところ、代理店から妨害が入り、新規案件の勉強会すら開催できないような八方ふさがりな状況であった。それほどまでに、後発のMCHが既存の商流へ参入することは難しかった。


また、言うまでもなく病院が1施設だけでは、拠点の採算が取れるはずもない。赤字は毎月積み上がり、その額が福岡の自宅の住宅ローンを上回るのを見て、「この先、どうすればよいのか」と頭を抱えたという。顧客病院の経費を削減するために働きながら、自らが担う拠点の収支には出口が見えなかった。


仕事は長崎だけで完結しなかった。門司・北九州では新規受注した病院でのSPDの立ち上げを進め、福岡・長崎では新たな拠点の候補地を探し、その合間に佐世保の病院へ向かった。九州北部を行き来しながら、複数の仕事を同時に前へ進める。現在から振り返っても、アクロバティックとしかいいようのない働き方だった。


それでも、1施設から始まった長崎での取引は少しずつ広がった。撫中氏が長崎で過ごした6年の間に、県内の主要な急性期病院のほとんどに取引口座を開設するまでになった。「最初から大きな戦略があったわけではありません。目の前の病院へ通い、相談されたことに一つずつ応えていった結果です」と振り返る。


長崎は、日本で最も多くの有人離島を抱える県でもある。営業先は本土だけにとどまらず、船で五島列島へ渡ることもあった。「私は船酔いをしないので、五島列島へ営業に行く日は、ほんの少しだけピクニックのような気分もありました」と、当時を懐かしそうに語る。


もちろん、離島で目にしたのは旅の楽しさだけではない。診療所の担い手が高齢化し、閉院する例もあった。島全体を見渡しても、医療機関は数えるほどしかない。限られた医療機関へ必要な医療材料を届け続けることは、島の暮らしを支えることにもつながる。医療材料の供給を通じて、医療だけでなく、島の生活そのものの持続性と向き合う貴重な経験となった。


長崎で築いた信頼は、県境を越えて次の仕事を生んだ。長崎時代にお世話になった方が鹿児島の病院へ異動すると、その赴任先から改めて撫中氏へ声を掛けた。その縁が、鹿児島における新たなMCHの拠点立ち上げへと結びついた。一つの病院で築いた関係が、病院の人事異動とともに次の病院へ受け継がれ、別の地域に新たな取引の起点を生む。こうしてMCHをハブとする医療材料の購買ネットワークが、九州各地へ広がっていった。
■価格や効率の先にあるもの。医療材料の供給が背負う「患者の命」
長い現場経験のなかには、今も忘れられない失敗がある。特に撫中氏の胸に残っているのが、気管切開をしている重度障害の患者のカニューレ(気道確保のために気管などに挿入する医療用のチューブ)を巡る出来事である。


夏の暑さが厳しいある日、患者の母親は月に1度のカニューレ交換のため、車を十分に冷やし、娘の体調に合わせて時間をかけて病院へ足を運んでいた。しかし、1カ月前から予約していたにもかかわらず、新しいカニューレが届いていないという事態が起きた。母娘は何時間も待たされた末に、その日はカニューレの交換ができないまま帰宅を余儀なくされ、1週間後に再度そのための受診を強いられてしまったのだ。後日、母親から届いた手紙には、万全の準備をして病院を受診したにもかかわらずカニューレを交換できなかったことへの切実な思いが記されていた。「どうか、今後、この様な事がありませんよう、事情お察しの上、よろしくお願い申し上げます」――重度障害の娘を守る母親からの痛切な願いは、撫中氏の胸を強く打った。


「もしも自分の子どもが受ける診療だとしたら、どの医師がどのような診療を行い、どの医療材料が使われるのか、きちんと確かめたいと思うはずです。私たちは、その感覚を仕事の根底に置かなければなりません」と語る。
SPDは、倉庫から病院へ物を運ぶだけの仕事ではない。取り扱う一つひとつの診療材料は、患者の治療を支え、命や日々の生活をつなぐものである。正しい物を、必要なときに、必要な場所へ確実に届けなければならない。価格を下げ、在庫を適正化するだけでは、その役割を果たしたことにはならない。


共同倉庫を持ち、顧客病院のために有利な条件で医療材料を調達し、各病院へ届ける。MCHが約30年にわたって愚直に続けてきたことは、一見すれば単純である。しかし、その仕組みを止めず、必要な物を取り違えず、全国の医療現場で日々動かし続けることには、大きな責任が伴う。


かつて久留米で「もうこんな大変なことは二度とやりたくない」と思った青年は、今や800人規模の仲間の先頭に立ち、その責任を背負っている。撫中氏と仲間たちが九州で築いたものは、取引口座や物流拠点だけではない。逆風のなかでも現場へ通い、相手の話を聞き、約束した物を届け続けることで生まれた信頼である。その積み重ねが人を育て、地域を越えて信頼と購買のネットワークを広げ、現在のMCHを支えている。

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