2026年10月30日、株式会社ブックダムから『やさしさは社会をデザインする ペイフォワードが巡る世界』が発売された。著者は一條仁(いちじょう ひとし)さん。障害のある人の就労支援の現場から、企業の人事、障害者雇用の推進へと歩み、2026年に独立した。一貫して取り組んできたのは、「支える人を支える」仕組みづくりだ。
会社員として働くかたわら、2018年に「ペイフォワードカフェ」を立ち上げた。ここでは、ドリンクの代金を払う必要がない。目の前の一杯は、前に来た見知らぬ誰かからのギフトだからだ。そして今度は自分が、次の誰かのために、好きな金額とメッセージを残していく。開催数は、福島開催を中心に10回以上を数え、のべ1000人を超える方たちが、カフェを訪れた。
本が完成し、発売を6日後に控えた日。ブックダム代表の菊池奈起が、一條さんに「その後」と「いま」を聞いた。
――クラウドファンディングで応援してくださった方々の手元に本が届き、SNSにはさっそく感想が上がり始めています。
一條:感謝では言い表せないくらい、万感の思いです。第1回から関わってくれて、ずっと会っていなかった人から「届いたよ」と連絡がきたのも、うれしかったですね。でも、同じくらいうれしいのは、ペイフォワードということばさえ知らなかった方が、「この考え方、いいね」と言ってくれていることなんです。発売はまだこれからなのに、感想だけで、もう幸せな気持ちです。
クラウドファンディングの返礼品の書籍にサインをする一條さん
◆再会できたら、「あのとき、役所に行けましたか」と聞きたい
この本は、9年前の、ある出来事から始まる。
2017年10月。夕方の福島駅前で、一條さんは、前から何度か見かけていた男性に声をかけられた。「100円、いただけませんか」。いつもなら、100円を渡して終わっていたかもしれない。でもそのとき、一條さんはなぜか、こう尋ねていた。「何に使うんですか?」
返ってきたのは、「おにぎりを、買いたいんです」。2人でコンビニに行き、ツナマヨのおにぎりを買って、並んで食べた。話すうちに、男性が年金を受け取れるかもしれないとわかり、一條さんは役所で確かめることを勧めた。男性は「役所に行って聞いてみる」と答え、それきり、姿を見かけなくなった。
なぜ、あのとき聞き返したのか。一條さん自身がその理由にたどり着いたのは、この本を書きながらだったという。
――本が発売されれば、本は見知らぬ誰かのもとへも届いていきます。もし街で、あの男性にばったり再会して、この本を手渡せるとしたら。何を伝えたいですか。
一條:まずは、「あのとき、役所に行けましたか」と聞きたいです。シンプルに、そこですね。あの話は、ぼくの希望的観測でしかないんです。あのあと、住むところは見つかったのか。定かじゃないから、それがずっと、自分のなかで気になっています。
一條:もし、あれが良い変化のきっかけになっていたなら、とてもうれしいですけど。そのうえで、「あの出来事で、ぼく自身がすごく満たされました」とは、率直に伝えたい。ただ、詳しいことは言わないと思います。重く受け止めてほしくないので。本を書いたことも、たぶん言わない。美談のように受け取られたくないんです。「一條です」と名乗ることもなく、見知らぬ人間のまま。覚えていても、いなくても、それでいい。だから、本を渡すことはないかもしれませんね。
◆誰かのために倒れる人を、仕組みで支えたかった
本のなかで一條さんは、福祉事業所に勤めていたころの、ある夜のことも書いている。夜8時過ぎ、忘れ物を取りに事業所へ戻ると、管理者のAさんが1人で残業をしていた。「私がやらないと。みんながんばっているから」。その手を止めることができないまま、Aさんはほどなく休職し、退職した。
――あの夜の光景は、その後の仕事の選び方を変えましたか。
一條:ぼくの人生にかなりの影響を与えたのは間違いないです。あの状況を見て、仕組みが必要だ、支援者への支援が必要だと感じました。本の冒頭に「‟人の役に立ちたい“と願う人ほど、先にすり減っていく」と書きましたが、それがいちばんはっきりと絵になって浮かぶのが、あの夜なんです。
ペイフォワードカフェの活動は、やさしさが循環する仕組みを体現している。
一條:ぼくが1人で何とかしようとすれば、目の前のその人は助かるかもしれない。でも、組織は助からない。だから、仕組みで支えられないかと考えるようになりました。キャリアでいえば、支援者を支える人事の仕事です。メンター制度をつくる、評価制度を整える、福利厚生をきちんと用意する、支援者を育てる研修を設計する。あのときから、「支える人を支える」が、はっきりと自分の軸になったと思います。
◆競争のものさしでは、「支える人」は測れない
――日本の会社や組織で、「支える人を支える」ことを阻んでいるものは何でしょう。
一條:難しい問題ですけど、まずは予算、お金ですね。それから、根強い文化です。がんばればがんばるほど、上に上がっていく。同期のなかで誰が頭一つ抜けるか。そういうところで価値が測られてきたので、会社のなかも競争社会になっていきます。
競争の原理をすべて否定するつもりは、決してありません。ただ、そうなると「競争している人を支える人」は、どう評価されるんだろうと思うんです。あの夜のAさんは、競争しようとして倒れたわけじゃない。ほかの人の仕事を助けようとして倒れたんです。社会が競争の原理で組み立てられている限り、支える人を支えるという発想は生まれにくいし、会社としてもそこにお金を出しづらい。
少しずつ見直されてきてはいます。健康経営やウェルビーイングということばも使われるようになってきました。それでも、心を病んで休職したり、労災を請求したりする人は、過去最多を更新し続けている。このままでは、懸命に働く人がいなくなってしまいます。気づき始めている人もいますが、まだ一部だと感じています。
一條さんが前置きした労災の数字を確かめると、厚生労働省「令和7年度 過労死等の労災補償状況」(2026年7月公表)で、精神障害に関する請求件数は4958件。やはり、過去最多を更新していた。
◆AIが生んだ余白を、人のために使いたい
――この先、社会はどのように変わっていくと思いますか。
一條:いま、仕事の担い手がAIに置き換わりつつありますよね。ぼくはそこに、希望的な見方と、悲観的な見方の両方を持っています。
希望的な見方で言うと、人間が仕事をしなくて済むようになったら、人は大事な人のために生きるようになると思うんです。ぬくもりや思いやりが大事になる。というより、言われなくてもやるんじゃないかと。誕生日プレゼントも、その人に喜んでもらうにはどうしようと、自分で考える時間が増える。そういうことが、世の中にどんどん増えていくと思います。
――大事な人を大事にする。その延長に、本に書かれている、見知らぬ誰かにほんの少しやさしくする回路が、もう1つ増えていく。
一條:おっしゃる通りです。そして、悲観的なほうで言うと、手触りや肌触りがなくなっていくのが怖い。いまはSNSを見ても、本人が書いたのかどうか、もう見分けがつきません。はたから見ると、どんどん人ならざるものになってきている。自分のコアを見失わないか。これは、ぼく自身にも問いかけています。
一條:生まれたときからAIと一緒に育つ子どもたちは、人を大事にできるのか。AIのほうを大事にしてしまわないか。たまごっちに夢中になって、宿題もやらず、お母さんとも友達とも話さなくなったら悲しいですよね。そのたまごっちが、いまのAIだったら。AIはどこまでも気持ちよく話してくれるし、どこまでも自分に合わせてくれる。そうなると、人を大事にすること自体が、重たいものにしか感じられなくなるんじゃないか。そうなったら、何のために生きるのかがわからなくなりそうで、怖いんです。
だから、AIで効率化されたことは、それとしていいことだと思っています。そのうえで、生まれた時間の余白を、人のために使いたい。ペイフォワードカフェも、手紙を書いて誰かに届けるのも、手間がかかります。ぼくは名刺の裏に、必ず手紙を書けるようにしていて。お会いする前に一筆入れたり、お会いした時にその場で書いたりしています。生産性が上がった分、そうしたことにあえて時間を使う。ぼくは、そうありたいと思っています。
8年間、のべ1000人以上に、確かに巡り続けてきたメッセージ
◆「いまつらい」と、知らない誰かに言える社会へ
――ペイフォワードカフェそのものは、いずれなくなってもいい。一條さんはそう話してきました。それでも、この考え方が時間をかけて広がったとき、どんな社会が見えていますか。
一條:1つは、何でも言い合える社会です。例えば、いまは、本を出版しました、テストで100点を取りました、と言えば、素直に喜びを分かち合ってくれる人もいれば、成功を妬む人もいるかもしれない。そういうのもなくなって、気軽に「いいね」と言い合えるようになると思っていて。
逆に、心の病気を抱えていたり、生きるのがつらかったりする人は、がんばってきた人ほど言いづらい。キラキラしている人の前で、つらさは見せにくいですよね。でも、知らない誰かにちょっといいことをするのが当たり前の文化になったら、「いま、つらい」が誰にでも言える。知らない人に言われても、「大丈夫だよ、ぼくも実はつらいことあったからさ」と返せる。それがあちこちで起きて、「今日、外に出てよかったな」と思える。
オーストラリアを訪れたとき、知らない人からいきなり「どこから来たの?」と声をかけられました。違うことが当たり前の社会で、やさしさが薄く広く流れている。それを自分の目で見てきたので、夢物語だとは思っていません。ペイフォワードカフェは、こういう世界があり得るんだということを、仲間たちと目に見える形にした場所なんです。
オーストラリアのLentil as Anythingで運営ボランティアをした時の一條さん
一條:正直に言えば、影響力のある人に何かしておけば、あとで返ってくるかもしれない。そんな打算が、ぼくにもないと言ったら嘘になります。人を選んでいる自分に気づくと、卑しいなと思って、しんどくなる。でも、やさしさが薄く広がる世界の果てでは、そういう自分も許せたり、影を潜めたりするんじゃないかと思っています。
◆「一條だからできる」には、したくなかった
――伝えたいのに伝わらない。そんなもどかしさを感じることはありますか。
一條:活動のなかでは、最近はほとんどなくなりました。むしろ日常生活で、言うのをためらうようになったかもしれません。押し付けになってしまうので。福祉の仕事をしてきたこともあって、その人その人の世界を大事にして話したいんです。完璧には理解できなくても、理解しようと努めることはできる。だから、相手はどんな世界を見ているんだろうと思いながら聞くんです。
伝わらないのは、ぼくの伝え方のせいかもしれない。でも、社会がまだそこまで成熟していないだけなんだと思うんです。たぶん、ぼくはずっと信じているんですよね。時間が経てば、見えてくるはずだと。
さまざまな活動を通じ、ペイフォワードを伝え続ける一條さん
――本では、ご自身の療養の経験にも踏み込んでいます。
一條:なぜこの活動を、とはよく聞かれるので、自分を徹底的に掘り下げました。福島駅でああいう行動をとったのは、療養していたころの経験があったからです。そこは書くと決めました。
ただ、実はまだ書けていない部分もあって。一度書いて、まるごと削除したところもあるんです。「こういう経験をしてきた自分だから、これを生み出せた」と書けば、説得力は増すかもしれない。でも特別感が出すぎて、「これは一條だからできる」になってしまう。知ってもらうことには役立っても、「自分もやってみよう」と思う人はふえない。どこまで書くか、本当に悩みました。そのうえで、今、出せるものは全部出しました。
いちばんの願いは、ペイフォワードを知った人が、自分なりの形で実践してくれること。だから、「自分」という主語を大きくしすぎないように意識しました。
――本を書いたことで、初めてことばにできたことはありますか。
一條:福島駅の男性との出会いが、すべてのきっかけだと思っていたんです。でも書いてみて、自分はもう、巡りのなかにいたんだと気づきました。普通、「100円、いただけませんか」と言われたら、渡すか、渡さないかですよね。なのに、なぜ「何に使うんですか」と聞き返したのか。掘り下げていくうちに、顔も名前も思い出せない誰かに助けられたことを、ふと思い出したんです。顔は浮かばないのに、かけてもらったことばだけは、いまも覚えています。
その記憶が何だったのかは、本の終章に書かれている。
◆最後は、人だから
――一條さんの使命は「思いやりを広げる人をふやす」。いま、その使命とどう向き合っていますか。
一條:ぼくがまっさきに思い出すのは、やっぱり、カンガくんの手紙なんです。
そう言って、一條さんは取材の席に持ってきていた一通の手紙を取り出した。
2019年、シドニーのホームステイ先で過ごした、障害のある男の子、カンガくん。日本へ帰国する日、彼の気持ちをお父さんが代筆して手渡してくれた手紙は、こう始まる。「ぼくがなんでこのように生まれてきたのか、聞かれるんだよね」。この一文の先に、一條さんの使命となったことばが続いている。
一條:この手紙を読むと、自分の実体験や考えを思い出せるんです。この始まりが、すごいんですよね。どう生まれるかは、選べないじゃないですか。しゃべりたくてもしゃべれない、立ちたくても立てない。そういう人を、生産性や合理性では、最後まで救いきれないと思うんです。ビジネスの力で社会課題を解決しようとする取り組みも、もちろんあります。ぼく自身、仕組みや循環、構造を大事にしてきました。それでも、最後の最後は人だから。
使命というよりは、自分自身がこういう人でありたい、という感じです。そうやって生きているときの自分が、好きなんですよね。
◆やさしくしてしまう自分を、誇っていい
――最後に、この本を読んでくださる方に、1つだけ受け取ってほしいものがあるとすれば、何ですか。
一條:結構、考えちゃうな。
一條さんはしばらく、ことばを探した。
一條:誰かにやさしくすることは、自分にやさしくすることでもあると思うんです。誰かに何かいいことをしてもらって、気持ちが温かくなる。その受け取った気持ちを、また誰かに渡す。そうすると、受け取った人も、自分も、いい気持ちになる。だから、人にやさしくすることを、ためらわなくていい。それが自分のためにもなるということは、伝えたいです。
一方で、誰かに尽くしすぎて、疲れてしまっている人もいると思います。この本を読んでくださる方のなかにも、きっといる。そういう人には、大丈夫だよと言いたい。その気持ちは、弱さなんかじゃ全然ない。生産性ばかりが問われて、生きづらさを感じてしまういまの世の中で、誰かにやさしくすること、誰かに手をひらくことは、1つのやわらかな抵抗です。だから、全然誇っていいんですよ。誰かのために、思わず何かしてしまう。それ自体が、本当に素晴らしいことなんです。やめなくていいんです。いまのままで、大丈夫です。
一條さんが胸につけているピンバッジは、ジュエリーデザイナーであるカンガくんのお父さんから贈られたプレゼント。手紙の中で偶然生まれたイラストの雰囲気がそのまま形になっている。
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<編集後記>
ここからは一條さんのことを、普段の呼び方で、「仁(じん)さん」と呼ばせていただきます。
インタビューのなかで仁さんは、「思いやりを広げる人をふやす」という使命に対して、「すぐに伝わらなくても、(いつか伝わっていくと)自分はずっと信じている」と語っていました。相手の見ている世界を想像しながら、待つ。福祉の現場に立ち続けてきた人のことばだと思いました。
この本が伝えているのは、やさしさは一部の「いい人」の性格ではなく、社会を流れる循環だということ。そして、読む人はすでに、その巡りのなかにいるということです。「与える」 や 「贈る」 という行為は、“貢献”や“GIVE”といった仕事やビジネスの文脈で語られがちなこの国で、損得の外にある小さなやさしさを、もう一度信じてみたくなる一冊です。
この本は、顔の見える方々の応援に支えられて生まれました。そしてこれから、まだ顔も知らない誰かのもとへ渡っていきます。明日、ほんの少しだけ、誰かにやさしくなれる。その最初の一歩を、この本が手渡せたらうれしいです。
株式会社ブックダム 代表取締役 菊池奈起
『やさしさは社会をデザインする ペイフォワードが巡る世界』
著者:一條仁 / 出版社:ブックダム
定価:1,760円(税込) / 発売日:2026年10月30日
単行本 / 四六判 / 228ページ
ISBN:978-4-911160-19-0
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